対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者。近江国雨森(滋賀県高月町雨森)に生まれる。儒学者木下順庵の門下に入り儒学を学ぶ。英才を賞され門下五賢徒の一人に挙げられた。同門下に新井白石がいた。 順庵の推挙で対馬藩に仕え26才の時初めて対馬に赴任した。24才から中国語を学んでおり、36
松田氏(まつだし)は、相模国 足柄上郡 松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族、並びにそれから派生したと見られる室町時代に備前国西部一帯に勢を張った家系、室町時代に奉行衆として仕えた丹後を拠点とする桓武平氏流の一族が知られている 。 南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後 宗澄茂が守護代から守護に昇格した。 なお、インターネットで宗氏を検索すると、宗貞茂を宗氏8代、宗貞盛を9代としているものがあり、李藝功績碑の記述と 異なっています。不思議に思って対馬市役所の文化財課に確認したところ、宗重尚(そう・しげひさ)を初代とするかしないかで この詩は対馬藩の宗家36代藩主・宗武志(そう たけゆき)が、1964年「新対馬島誌」発刊に際して書かれた。実はこの詩の背景に日本と韓国とをつなぐ悲恋物語がある。
対馬府中藩主家宗氏の家系譜。惟宗氏だが、平知盛の子孫として桓武平氏を称す。対馬在庁官人として少弐氏らに仕え、対馬守護代、対馬守護となる。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、本領を安堵された。維新後は伯爵。 12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った。
12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った。 対馬藩主宗義和図書(つしまはんしゅそうよしよりとしょ) 朝鮮時代・19世紀、 朝鮮国から対馬藩主に与えられた印章「図書(としょ)」です。朝鮮への外交文書には、この「図書」を捺(お)さなければなりませんでした。第14代藩主義和のものです。
宗氏(そうし、むねし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。 秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に … 宗家に縁のある祭事などには賓客として 招かれたりしているようです。 元寇で奮戦.
昭和6年、宗家第36代・宗 武志(そう たけゆき)伯爵と、李王家第26代高宗の娘・徳恵姫の結婚を記念して清水山にツツジが植栽され、巨大な記念碑が設置されました。 石垣 昭和6年、宗家第36代・宗 武志(そう たけゆき)伯爵と、李王家第26代高宗の娘・徳恵姫の結婚を記念して清水山にツツジが植栽され、巨大な記念碑が設置されました。 石垣 1920年、対馬中学校に入学。在学中、1923年3月に伯父重正の子・重望が死去し嗣子不在のため、同年10月に宗家の家督を継ぎ、第37代当主となる。 1925年3月に対馬中学校を卒業して東京に戻り、同年4月、学習院高等科 (旧制)に入学。
対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。 鎌倉時代は大宰少弐氏が対馬国守護・地頭を兼ね,宗氏は地頭代として支配に関係し,南北朝期に実質的な支配者となり,同末期に守護に昇格した。 1931(昭和6)年、新婚の宗武志公と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は朝鮮王朝第26代高宗の王女(翁主)である。 この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。 宗家三十六代 宗重望(幼名:直丸)(伯爵)(1867-1923) 夫人 松園尚子(松園尚嘉女)(1873-1923) 宗家三十七代 宗武志(旧姓:黒田)(伯爵)(1908-1985) ※実父は黒田和志: 夫人 李徳恵(李氏朝鮮二十六代国王高宗女)(1912-1989) *離縁 1: 酒井広親 2: 酒井氏忠 3: 酒井忠勝 4: 酒井康忠 5: 酒井忠親 6: 酒井忠次 左衛門督: 7: 酒井家次: 1590-1618 2代目当主の宗助国はあの蒙古が 襲来してきた元寇で戦った人物。 対馬沖に現れた3万の蒙古軍に対し、 わずか80騎で応戦。 弓矢で奮闘し、将軍らしき相手を倒すなど 更に進むと宗家の菩提寺である萬松院。 元和元年に宗家第20代義智公の菩提を弔うため、嫡子の義成公が建立しました。 義智公は対馬中津藩の初代藩主で、豊太閤の命によって朝鮮との交渉に当たりました。